最愛のものを奪われた二人。
一人は最愛のものとあるために過去を受容して生かそとする。
一人は最愛のものとあるために未来を拒絶して殺そうとする。
「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー(2018)」は、あるとき父は娘を殺し、あるとき父は娘を生かす。
「みおくりの作法(2013)」は、同じ死に方で違うみおくられ方になってしまった。
偶然の死は善ゆえに回避不可能、必然の死は悪ゆえに回避可能。
でも、もう、それも不確かになってしまった。
悪だけの悪と善だけの善を殺して善悪に生きる。
私たちは、物事を相対的にしか捉えることができない。
ただ「物事を相対的にしか捉えることができない」と理解したときに、その矛盾に気がつき真理を垣間見る。
それまでは、善悪をただ表面をなでるように法律や道徳で分別する。
まるで「ひよこの雌雄鑑別」のように早々に。
ただ「俺ちゃん(デット・プール)」は、簡単には「ひよこの雌雄鑑別」について善悪を下さない。
20年前頃から「これからの時代に求められる能力は情報処理能力から情報編集能力に変わっていきます」といわれだしました。
既に情報処理能力では人はAIにはかないません。
今、人に求められているのは情報編集能力、問題に対して答えを出すのではなく新たな問題を生み出す能力だそうです。
確かにそうだと思います。
結果論ですが、そもそも人に必要だったのは、否、そもそも人に備わっていたのは後者の情報編集能力だったのではないのでしょうか。
前者の情報処理能力は、法律や道徳が四方八方にはびこるようになった社会とともに生まれ、法律や道徳とともに増大してきた。
そして今、法律や道徳がはびこるその社会が飽和して、再び後者の情報編集能力が湧き上がってきたのかもしれない。
そのようなことを考えずにはいられない「デット・プール2」。
それでは「デット・プール3」は、いったいどうなってしまうのだろう。
帰途、中学生、何年生の頃かは忘れてしまいましたが、夏休み中のことを思い返していました。
これもどちらが先か後かは忘れてしまいましたが、深夜、テレビで放送されていた「ひめゆりの塔(1953)」と「戦場のメリークリスマス(1983)」を観たときの二日間のローティーンの心象です。
「ひめゆりの塔(1953)」を観たときは「何て外国人は悪いのだろう」と思い「戦場のメリークリスマス(1983)」を観たときは「何て日本人は悪いのだろう」と思う。
そして「あれ、善とは?悪とは?」というような中二病の単純な話です。
追伸。「デット・プール2」は、確かにファミリー映画です。ただし年齢制限あり。